タンタウ社は、マティアス・タンタウ・シニアによって北ドイツのウェッテルセンに創立されました。マティアスは園芸会社で樹木やバラの台木の栽培を学び、有名なペーター・ランバートのバラ園で経験を積みました。その後、故郷のウェッテルセンに戻り、1906年、父の土地で園芸会社を興したのが、現在のタンタウ社の始まりです。創立当初より、バラの台木と苗木、スタンダードローズを生産しました。1914年にはバラの苗木生産は25万本、バラの台木生産は300万本まで増加しました。ところがその後、第一次世界大戦によって会社の成長は止まり、生産数も激減してしまったのです。
そこで1919年に、その損失を埋めるためバラの育種を始めました。二度の世界大戦や、突然の災害などにも苦しめられましたが、順調に新品種を生み出し、評判となっていきました。やがてマティアスが世を去ると、息子であるマティアス・タンタウ・ジュニアが後を継ぎました。幸いなことに、マティアス・ジュニアは育種と事業の両方に才能を持っていました。
マティアス・ジュニアは、父の仕事を引き継いだだけでなく、市場を研究し、より大輪で鮮やかな花色のバラを目指して、育種に力を入れました。この頃、西ドイツ初代首相のコンラート・アデナウアーにバラを捧げるという栄光に恵まれました。(その後、東西ドイツが統一された時の首相ヘルムット・コールにもバラを捧げています。)1960年、輝くようなサーモンオレンジのHT品種「スーパー スター」が発表されると、一大センセーションを引き起こしました。今日も、オランダのアールスメール花市場の公式品種リストに「スーパー スター」の名を見ることが出来ることから、当時のインパクトの強さとこのバラの優れていることが証明できます。マティアス・ジュニアは強い芳香と強健さを兼ね備えた大輪系品種として「ブルームーン」などの銘花を世に送り出しました。
1964年にはタンタウ社は従業員70名、年間300万本のバラの苗木を生産する会社に成長し、国際コンクールにおいてメダルやトロフィーを勝ち取るようになりました。
1980年代に、父と共に長くタンタウ社に貢献してきたハンス・ユルゲン・エバースが3代目として選ばれ、販売・育種において豊富な経験を生かして、会社を導きました。現在は息子のクリスティアンが、父ハンスのつくった道を更に先へと歩み始めています。
庭園バラの育種から始まったタンタウ社のバラ育種事業は、現在あらゆるタイプの庭園バラおよび、切りバラにおいても世界中で大成功を収めています。
2006年、マティアス・ジュニアは惜しまれながらこの世を去りました。奇しくも同じ年にタンタウ社は100周年を迎えました。1世紀という節目において、タンタウ社は更に優れたバラを世界に提供していこうという力強い決意とエネルギーに満ち溢れています。 |