ディクソン社 品種j紹介はこちら
ディクソン社は1836年、アレキサンダー・ディクソンⅠ世によって創立された、世界で最も古いバラ育種会社のひとつです。
日本では現在でも人気のある名花「プリンセスミチコ」を作出したブリーダーといえば、思い出す方も多いことでしょう。
ディクソン社の歴史は、アレキサンダーがスコットランドのパースから、現在のディクソン社がある、北アイルランドのニュータウナーズに渡った頃にさかのぼります。彼はここで農場を始め、現在のディクソン社の基礎を築きました。イギリスの正式名称「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」の通り、北アイルランドはイギリスに属します。北アイルランドの首府ベルファストは、小さな田舎の港町が工業化されて都市として発展しました。タイタニック号が造られたところとして有名です。ニュータウナーズは、そのベルファストから15kmほど東にある街です。
プリンセスミチコ
シンプリーヘブン
ジョージ・ベスト
バラの育種を始めたのは、アレキサンダーの息子、ジョージ・ディクソン1世でした。ジョージは父の事業を継ぎ、そののちバラに深く魅せられて、自らの子供たちのうち(8人の息子と4人の娘がいました)、年長の息子たちであるアレキサンダー2世とジョージ2世の助けを得て、1879年頃、バラの育種を開始したのです。

1886年、ジョージは息子のアレキサンダー2世をロンドンに送り、国立バラ協会のショウにおいて、3つの新品種を展示させました。
1885年、ヴィクトリア女王は、ディクソン社にロイヤル・ワラント(王室御用達指定証)を与えました。これはジョージ6世の統治の終わりまで続きました。
アレキサンダー2世は、園芸における功績により、フランスからもレジョン・ドヌール勲章シュヴァリエの爵位を授けられました。

アレキサンダー2世の引退後、ジョージ3世とアレキサンダー3世が事業を継ぎます。しかし、その後第二次大戦が勃発し、育種作業は中断され、苗木の多くが焼却の憂き目にあいました。戦後、少量の在庫から再び事業が再開されました。
1957年からは、アレキサンダー3世の長男パトリック・ディクソンが父の育種作業を引き継ぎ、輝かしいキャリアを開始しました。1958年はディクソン社の「栄光の年」でした。バラ「シルバー・ライミング」が、王立バラ会から当時「英国最高のバラ」として賞賛され、アンドリュー王子の誕生を記念して、バッキンガム宮殿の庭園に植えられました。他の品種にも数々の賞が与えられました。
アレキサンダー3世は、王立バラ会からディーンホールメダル、英国王立園芸協会からは最高賞であるヴィクトリア名誉賞を受けました。(アレキサンダー3世の父と祖父も受賞しているため、ヴィクトリア名誉賞において、ディクソン社は"ハットトリック"を成し遂げました。)
その後もたくさんの名花が生み出され、さまざまな賞を獲得しました。

パトリックもまた、エリザベス女王からの大英帝国勲章や、英国王立バラ会のディーンホールメダルなど数々の名誉を受けています。このほかにもディクソン社がバラと、人の両方で受けた賞は、数え切れません。
パトリックは長く活躍したのち引退し、現在は息子のコリンがディクソン社6世代目として一家の偉大な歴史を担いつつ、新しい時代にふさわしいバラを次々と発表しています。パトリックはコリンを温かく見守り、コリンは妻や子供たちとともに、日々新たなバラ作りに情熱を燃やしています。

170年以上も間、それぞれの時代の人々に、美しいバラを送り続けてきたディクソン社の歴史は、バラ育種とバラ文化の歴史と言ってもいいでしょう。時代は変わっても、人々がバラを愛し、必要とする心は変わらないことを深く理解し、家族の愛情と絆によって、高貴な使命を守り続けてきたディクソン一族。その一輪に、英国のバラの伝統と歴史の重み、ディクソン家のバラへの情熱を感じずにはいられません。
 
 
 
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